*日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経也。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし*

この御書のポイントは、「日蓮がたましひ(魂)」とは、何なのかである。

答えは目の前にある。

*日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし*

「南無妙法蓮華経以上のものではない!」

と断言されている通り、日蓮大聖人の魂とは南無妙法蓮華経なのである。

南無妙法蓮華経とは、言うまでもなく法華経の題目の事である。

法華経の題目は、唱えれば唱題となり、書き顕せば本尊となりうるのである。
そして、題目を唱える空間は、どこであろうと戒壇となる。

日蓮大聖人曰く

*南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり*

即ち、南無妙法蓮華経は、本門の本尊、題目(唱題)、戒壇の三大秘法を具えた一大秘法なのである。

「日蓮(私)の魂である南無妙法蓮華経を書き顕した本尊なのだから信じて行きなさい!」

と、ご指導されているのである。

これが、正しく素直な御書の拝読である。

それに対し、

日蓮正宗や創価学会の読みは歪み切っている!

*日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経也。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし*

「日蓮がたましひ(魂)」とは、「大石寺の大御本尊(戒壇本尊)」だと言うのである。

1、「日蓮が魂は南無妙法蓮華経」とすぐそこに書かれているのにである。
2、「経王殿」に与えられた「一期一縁の御本尊」ついて言われているのにである。
3、「経王殿」に与えられた「一期一縁の御本尊」は「戒壇本尊」以前の本尊なのにである。
4、「戒壇本尊」は、墨ではなく金文字で掘り下げられた「コピー本尊」なのにである。

すると日蓮正宗の信者は、ここでの「南無妙法蓮華経」とは御本尊の事だと言い張るのである。
日蓮大聖人は、
「私の魂である南無妙法蓮華経を書き顕した御本尊」と言われているのである。
南無妙法蓮華経=御本尊ではない。
南無妙法蓮華経によって造られるのが御本尊なのである。
それは「木材によって造られた家」と書かれているのを読んで、
「木材は家なんだ」と解釈するのと同じ狂った思考である。
常人には説明するまでもないが、木材は木材であり、家を作ることも机を作ることもできるのである。
木材によって家が出来たからと言って「木材は家」と解釈するのは狂ってるとしか言いようがない。

日蓮大聖人が

*何物を以て本尊と定むべきや。答へて云く、法華経の題目を以て本尊とすべし*

と教えられている通りである。

>「以って」
>㋐手段・方法を示す。「誠意を以て交渉に当たる」「書面を以て申し入れる」「好意を以て迎えられる」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/219462/meaning/m0u/


*御そとばにも法華経の題目を顕し給へ*

と、題目は本尊ばかりでなく卒塔婆に書き顕す事によっても功徳があると教えられている通りである。
木材によって家ばかりでなく机や椅子なども造れるのと同じ道理である。

日蓮大聖人が

*本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字*

と繰り返し教えられている通り、南無妙法蓮華経とは、本尊ではなく題目の事なのである。


すると今度は、「御本尊に含まれているのが題目だから御本尊の方が大事なんだ」と日蓮正宗の信者は言い張る。
ここまでくれば、日蓮大聖人の金言に違背し己の我見や日蓮正宗の人師の邪義を狂信している謗法者である。

確かに、物理的、表層的には御本尊の中に題目はある。
しかし、その題目は「魂」だと大聖人ご自身が教えられているをもう忘れ違背しているのである。
人間で言えれば、御本尊は肉体であり題目は魂、心なのである。
魂がなければ、死んだ人、死んだ肉体なのである。
南無妙法蓮華経の魂によって生かされている御本尊とも言えるのである。

日蓮大聖人曰く

*題目は法華経の心也*
*南無妙法蓮華経と申は一代の肝心たるのみならず、法華経の心也*
*妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる、是を本尊とは申す也*

もしも、御本尊全体が題目よりも大事ならば、御本尊の相貌は不変でなければならない。
歯車が一つでも足りなければ動かなくなるようなものである。
ところが、日蓮大聖人が顕された御本尊は、相貌をどんどん変えて行ったのである。
日蓮正宗が「究竟した本尊」とする「戒壇本尊」が造られたらしい弘安2年後までも相貌が変化し続けているのである。
変化しなかったのは、中央に南無妙法蓮華経が書き顕されている事だけである。
南無妙法蓮華経以外は、無くとも、また無くなっても本尊として成り立つ。
しかし、南無妙法蓮華経が無ければ本尊として成り立たない。

つまりは、南無妙法蓮華経が魂なのだから当然である。
南無妙法蓮華経とは、本尊全体を指すのではない。
御本尊の中央に書き顕された「法体」が南無妙法蓮華経なのである。

御本尊の中に題目が含まれているではない、南無妙法蓮華経の中に一切が含まれるのである。


日蓮大聖人曰く

*日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽も奥州の金も、乃至国の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂まれり*
*題目の五字に一法として具足せずと云う事なし*


その上で、御本尊が大事なのである。
三大秘法の一つなのだから当然である。
南無妙法蓮華経が書き顕されているのだから当然の事である。



経王御前御返事全文

*其後御をとづれ(音信)きかまほしく候つるところに、わざ(態)と人ををくり給候。又何よりも重宝たるあし(銭)山海を尋るとも、日蓮が身には時に当りて大切に候。夫について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申候。先日のまほり(守)暫時も身をはなさずたもち給へ。其本尊は正法、像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕し奉る事たえたり。師子王は前三後一と申てあり(蟻)の子を取らんとするにも又たけき(猛)ものを取らんとする時もいきをひ(勢)を出す事はただをなじき事也。日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云く「師子奮迅之力」とは是也。又此曼荼羅能能信ぜさせ給べし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはり(障)をなすべきや。鬼子母神、十羅刹女法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはい(幸)は愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはふるともつゝが(恙)あるべからず。「遊行無畏如師子王」なるべし。十羅刹女の中にも皐諦女守護ふかかるべき也。但し御信心によるべし。つるぎ(剣)なんどもすゝまざる(不進)人のためには用る事なし。法華経の剣は信心のけなげ(勇)なる人こそ用る事なれ。鬼にかなぼう(鉄棒)たるべし。日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経也。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云く「顕本遠寿を以て其命と為す」と釈し給ふ。経王御前にはわざはひ(禍)も転じて幸となるべし。あひかまへて御信心を出し此御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。「充満其願如清涼池現世安穏後生善処」疑なからん。又申候、当国の大難ゆり候はばいそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし。法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。ただ歎く所は露命計也。天たすけ給へと強盛に申候。浄徳夫人龍女の跡をつがせ給へ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。あなかしこ、あなかしこ*
八月十五日               日蓮花押
 
日蓮聖人遺文より


随時加筆訂正する。