御本仏も御法主上人も堪え忍んで法を弘め護ってこられた 07

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と、法華講の樋田氏が書いてるので、何を堪え忍んでるのかと観てみれば、そんな内容はない。
彼は、御書を極めて主観的に読んで脚色してしまっている。
御書に書いても無い御本仏の心を法主権威主義に都合のいいように脚色し、広めている。
大聖人の生命も十界互具なのは、当然である。
しかし、
「刀で切られそうになったとき怖かった」などと、御書のどこに書かれているのか?

御本仏曰く

*或時は数百人にのられ・或時は数千人に取りこめられて刀杖の大難にあう*

*今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり*

*兼兼申せしが如く日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず*


が大聖人の御精神であり、苦難を恐れる者は、弟子の資格がないことを何時も言って来たのである。

*せうばうに日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には・法華経の故とはをもへども・いまだ凡夫なればうたてかりける間・つえをも・うばひ・ちからあるならば・ふみをりすつべきことぞかし、然れども・つえは法華経の五の巻にてまします*

どこにも
「法華経第五の巻で叩かれた時に、本当に立ち上がってへし折ってやろうかと思った。」
などとは、書かれていない。
*つえをも・うばひ・ちからあるならば・ふみをりすつべきことぞかし*
「杖であっても奪い、力があるならば、踏んで折って捨てるべきことである。」
と一般の凡夫の対応を客観的に書いてあるのだ。
*然れども・つえは法華経の五の巻にてまします*
からは、大聖人が笑みさえ浮かべていらっしゃる姿が拝せるのである。

さらに、この御文の後には、こう書いてある。

*日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや、何に況や法華経の御恩の杖をや、かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし*

「私日蓮は、その結果成仏するのだから、どうして少輔房の恩を捨てる事ができようか、しかも杖ではなく法華経で打ってくれた法華経の行者の証明となる御恩である。このように思い続けると感謝の涙を抑えられない。」

大聖人は、凡夫の心を理解し同意しながらも、乱れ果てた末法の世において身口意に渡る菩薩の実践を貫かれ、法華経の行者の『実績』を残されたのである。
それに対し、
大難も受けず、嘘つきにして、贅沢三昧にして、妻帯し出家でさえもあらざるニセ法主の権威を「やってることは凡夫に見えるが内証は仏なんだ」と誤摩化し容認させる為に、外用上行菩薩の実践を貫き通した御本仏日蓮大聖人の振舞と精神を御書にありもしない内容に脚色し、ニセ法主と同等に貶めようとしているのだ!
振舞言動が本化の菩薩であって初めて「内証が仏」と言えるのである。
日蓮正宗法主の振舞言動のどこが、「内証の本仏」を証明しているのか!
どのような法華経の行者としての『実績』を残したのか?
この法華講の邪師は、

*汝忠を存ぜば諌むべし*

との御文を引き、
「ちょっとした誤りがあったとしても、師匠は師匠として尊信しつつ諌めて行く」
などと奇麗ごと言いながら、
結局は、法主が犯した数々の大罪を容認し、多くの人々に容認盲信させようとしているではないか!
日蓮正宗法主の誤りは、「ちょっとしたもの」ではない!
宗門随一の僧宝、日興上人の遺誡にも違背するものだ!

日興遺誡置文に曰く

一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。

一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。

一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

一、直綴を着す可からざる事。

一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事。

一、謗法の供養を請く可からざる事。


これらの遺誡に違背しているのは、明らかである!

一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。

「いささかも」である。
少しも大聖人の金言に違背してはならないのだ!
それにも関わらず、大いに違背し、「南無妙法蓮華経の御本尊にさらに法主の開眼認可が必要」としているのが日蓮正宗の根本義である。
ここを見よ。
http://kangaeruhito777.blog100.fc2.com/?q=%B3%AB%B4%E3%B5%C1&page=2#entry64

一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。

http://f.hatena.ne.jp/sokaodo/20061002132947
贅沢に飲み食いしながら弟子や芸者と何を語ったのか?^^
芸者の歌や踊りは、「歌道」どころではない!

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯有りと雖も衆徒に差置く可き事。

日蓮正宗法主59世日亨上人は、興門派僧侶の「妻帯」を「一時の変体」としている。
「変体」とは、

普通と違っていることであり、
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E5%A4%89%E4%BD%93/m0u/

「異常」と言う事である。

い‐じょう【異常】
[名・形動]普通と違っていること。正常でないこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/11470/m0u/%E7%95%B0%E5%B8%B8/


その僧宝の遺誡に違背する「異常な妻帯」が平気で続けられているのが日蓮正宗なのだ!
一時的であっても法主から一般僧侶に格下げすべきである。
一時的でない妻帯の法主は、日蓮正宗から追い出すべきなのは言うまでもない。
http://kangaeruhito777.blog100.fc2.com/blog-entry-14.html

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。

高級料亭で、弟子共々、芸者と写真を撮る日顕上人猊下
http://f.hatena.ne.jp/sokaodo/20061002132947
これが、「身命を捨て」た姿か!

一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

このブログを読めば判るように、「御本仏の金言の数々に相違」し、正反対の己義を構えているのが、日蓮正宗の法主である。


一、直綴を着す可からざる事。

日興上人は、直綴と言うファッションが嫌いだったのではないぞ。^^
当然、贅沢な衣服を僧侶が着てはならないと言う意味である。
猊下の着ているギンピカの法衣はなんだ!
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/751/geika751.jpg
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/754/Gohossu300.jpg

一、謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事。

これも、創価の捏造なのか?
●邪宗の者らと記念写真におさまった日正(前列右から2人目)
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/zuhan/386_1.html

一、謗法の供養を請く可からざる事。

正本堂などは、謗法からの供養として破壊しながら、同じ謗法の学会から寄進された何百と言う寺を都合良く使い続けているではないか。

これら数々の遺誡に違背していることが明らかになった今、
日興上人の遺誡の結論

右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず、仍つて定むる所の条条件の如し。
元弘三年癸酉正月十三日日 興 判


の通り、日蓮正宗の現法主達は、日蓮正宗から追放されるべきであり、それができない日蓮正宗の信徒が日興門流と名乗ることは許されないのだ!
樋田氏は、これら師匠の数々の違背に対し、どんな「いさめ」を何回して来たのか、お伺いしたいものである!
まあ、また、ダンマリ記録更新だと想うが
http://nammyohorengekyo.blog.jp/archives/1033972066.html

2016.12.8 加筆訂正した。